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【アラベスク】  第1章 春の嵐



第3節 秦鏡 [4]




 額を押さえると、じっとりと汗ばんでいる。どんな時でも眠ると大概落ち着くのに、今はものすごく疲れを感じる。
 眠った気がしない。

 どこからが夢だったのか。

 身体が浮かび上がった時には眠っていたに違いない。だが、夢とは思えない。
 目を見開き大口をあけて嗤う山脇の顔が思い出され、ゾッとした。ひょっとしたら、それが本当の山脇かもしれない。彼の本音なんてわからない。

 からかわれているのか?

 必死に耳を(そばだ)てても、隣からは何の音もしない。

 帰ったのか?

 こっそりと起き上がり襖を開ける。
 暗闇の中に人影を見つけてギョッとした。
 膝を抱えて壁にもたれる人影。今までずっと、この暗闇の中でそんな風にしていたのだろうか?

 ………
 寝ているのだろうか?

 そう思い、ふっと身を乗り出すのと同時。
 相手は、こちらに気づいて顔をあげる。表情はわからない。
 美鶴の姿を認めると、膝を崩して片手を床についた。

「あっ」

 何か言おうと、こちらへ乗り出す。

「―――私」

 とっさに言葉が飛び出した。

「アンタになんて騙されないから」
「騙す……?」

 美鶴の言葉が理解できず、山脇は不安そうに首を傾げる。

(たち)の悪い冗談で、私をバカにしないで」

 そうとだけ言うと、勢いよく襖を閉めた。閉めてしまった。

「大迫さん」

 (ひそ)められた言葉が襖の向こうからかけられる。だが美鶴は、それに応じることができない。

「冗談だなんて……」

 男の腕ならば、いや、細い美鶴の腕でだって、ぶち抜こうと思えばできないこともない、安アパートの薄っぺらな襖一枚。その向こうで必死に言葉を探すのがわかる。

「確かに、突然言ったって信用できないかもしれない」

 なんとかして、言葉を紡ぎ出そうとしている。

「でも、僕は本当に君のことが好きなんだ。だから……だから、君が何かトラブルに巻き込まれているようなら、守ってあげたいんだ。それに……」

 カタリと襖が揺れた。だが、開かれる様子はない。

「澤村のことで、君がまだ辛い思いをしているのなら……」
「そんなことないっ!」

 思わず叫ぶ。

「大迫さん……」

 山脇の声が大きくなった。どうやら襖に寄り添って話しているようだ。思わず後ずさって襖から離れる。

「……君は、そんなふうじゃなかった。もっと明るくて………」
「やめてっ」
「たとえ澤村が君を振ったとしても……」
「やめろっ!」
「……世の中のすべてが君を拒絶したワケではない」
「やめろってっ!」
「僕は今でも好きだ」
「やめろってばっ!」


 ―――やめろっ


 両手で耳を押さえた。それ以上は聞きたくない。思い出したくはない。
 強く頭を振る。

 何も、何も……
 何も思い出したくはない。

 しばらく沈黙が流れた後、山脇の声はそっと、だが力強く……

「君が僕を信じないと言うなら、僕だって君を信じない」

 怒りのようなものを含ませた、山脇らしからぬ声音。生唾を呑む。

「こんな風に人を見下して楽しむような、拒絶して孤立して満足するような君が本当の君だなんて、僕は信じない。絶対に信じない……」

 それはまるで自分自身に言い聞かせているよう。

「絶対にっ―――」

 最後は闇に消え入るような微かな声で、それっきり何も言わなかった。

 美鶴は、背筋に寒気を感じた。同時に締め付けられるような感覚が胸に広がり、鼓動が早くなるのを感じた。自分が何かに激しく動揺しているのだと理解できた。

 だがそれを認めたくはなかった。
 認めることは、今の自分を否定することになるような気がした。自分が間違っているとは思いたくなかった。
 動揺を振り払うかのように頭を振る。

 ヤツは信用できない。

 そう思うと、不安と懐疑が美鶴の胸の内に広がった。

「秦鏡があったらいいのにね」

 ……アイツの心こそ、鏡に映してみたいものだ

「人の心を映し出すんだ」

 そもそも秦鏡とは、心を映すのではない。人の善悪や病の有無を映し出すのだ。善悪正邪を映し出すというだけで、その人が何を考えているかまではわからないはず。

 だが、邪心の有無くらいでも知りたい。
 山脇の真意を見抜きたい。


 真意―――


 だいたい、なぜ自分は、アイツと一緒に下校などしたのだろうか?
 なぜなのだっ?
 キーホルダーの中身を覚せい剤だと見破ったのは山脇だ。ひょっとしたら、彼も関わっているのかもしれない。

 再び布団にもぐりこむ。予習や復習なんてする気にはなれない。

 私は、敵を部屋の中に入れてしまったのかもしれない。今も隣で何か細工をしているのかもしれない。部屋のどこかに覚せい剤を仕込ませているのかも。
 そうして警察にでも通報して私に覚せい剤所持の疑いをかけさせて………
 でもそれなら駅舎でキーホルダーを見つけた時に、いくらでも美鶴に濡れ衣を着せることはできたはずだ。
 いや、すべては私を安心させるための演技なのかも。一度は味方だと思わせて周到にワナを仕掛けるつもりなのかも。

 寝返りを打つ。


 真意が、知りたい。


 ……キーホルダーの中身は、本当に覚せい剤だったのだろうか?

 考えれば考えるほど混濁(こんだく)する。だがその中で、美鶴は必死に言い聞かせた。

 信じてはいけない。何もかも、信じてはいけない。
 それなら、なぜ山脇と一緒に帰ってきたのか? なぜ家の中へ入れたのか?
 なぜ私は、眠ってしまったのか? 隣で何をされているのかわらからないというのに。


 なぜ………


 頭を抱えて目を瞑る。

 好きなんだ

 惑わされてはいけない。言葉の裏の真実を見抜かなければ……
 そうしなければ、騙される。
 そう 言葉には裏がある。
 真実はいつも隠されている。そうに決まっている。だからっ―――
 だから、ヤツの言葉は真実ではない。

 寝返りを打つ。

 信じてはいけない。
 だって、誰もみんな、私の知らないところで嗤っているのだから……







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